沖島

琵琶湖に浮かぶ沖島

沖島全景

歴史

沖島左義長 成人式に行われる沖島左義長 成人式に行われる

 万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。
 和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。しかし、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされ、戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。以後も、時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けました。
 徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

人口・町村制

 文化2年(1805)の資料によると、戸数は43戸・194人と記されています。一時期は戸数が100戸余りに及んだとされていますが、安政年間の火災で一部住民が対岸の町(近江八幡市船木町)に移住しました。かつての沖島は、彦根藩と対岸の伊崎寺の半分ずつの領地とされましたが、明治22年の市町村制施行後は、蒲生郡島村(大字沖島)となり、昭和26年に蒲生郡八幡町に編入された後、昭和29年に現在の近江八幡市となりました(現在は約140世帯 約300人が住まわれています)。

漁業

沖島の漁業

 275億トンの水量を誇る琵琶湖は近畿1400万人の水ガメと称され、50種類を越す固有種が存在するまさに宝の湖です。沖島の住民もその殆どが漁業関連の仕事に関わりを持ち、その操業範囲は琵琶湖一円に渡り、底引き、刺網、定置網、沖引網、貝引網、などの漁法により、エビ、鮒、鮎、ゴリ、イサザ、ワカサギ、ハス、シジミ、などが水揚げされています。港湾の本格的な整備は、「豊臣秀次」(豊臣秀吉の甥:近江八幡町開町の祖)が本格的に取り組んだとされます。又、大正・昭和の2度の御大典大嘗祭に鰉(ひがい)の蒸焼きが供物として献上されたことにより市場で有名になり需要が増した事などもありました。昭和56年には現在の秋篠宮様が皇族として始めて島内を視察されています。
 以後、高度成長期の流れを受けて、昭和48年に琵琶湖総合開発が着工される頃になると、昭和52年に赤潮発生、昭和54年のブラックバス確認、等の水質汚染や生態系の変化により、漁業を取り巻く状況も厳しさを増し、近年は後継者不足などの問題も抱えています。

石材業

 島を形成しているのは石英斑岩と呼ばれる良質の石材で、享保19年(1734)の「近江国與地誌」(寒川辰清)には沖島について「湖中の一島なり。漁人多く此処に住み、其の島の石を取って之を売る」と記されてあります。この事からも、古くから石材の切り出しは行われていたようで、明治期には琵琶湖疎水、南郷洗堰、東海道線の鉄道工事、等々で活気に溢れました。当初は島外から石工が来ていたようですが、後に島の中から技術を習得し石工になる者が現れ、大正4年には沖島石材販売組合が組織されるまでに至りました。収益は自治会経費を補う事に加えて、対岸の土地を購入し米作農業を始めるなど島の食糧確保や経済効果にも大きく貢献しました。しかしながら、時代の流れで、コンクリートブロック時代に入り、湖上交通から陸上輸送にシフトする中で、次第に競争力を失い、採掘場の老朽化が進むなどしたことにより、島の地形が変わるほど切り出されたという沖島の石材産業は昭和45年の組合解散に伴い、その歴史に幕を下ろしました。

今参りの局(いままいりのつぼね)

 室町幕府8代将軍:足利義政の側室が「今参りの局」である。正室である日野富子は男児を出産しましたがわずか20日足らずで死亡したため、今参りの局一族が祈り殺したとの罪で、沖島へ流罪とし、数日後に京からの使者により惨殺させました。その時に助けられたとされるのが彼女の子「櫻子」である。小説「櫻子」は昭和34年に大仏次郎によって執筆され新聞連載されました。

沖島ガイドマップ

沖島ガイドマップ

西福寺(浄土真宗本願寺派)

蓮如上人の像(西福寺)蓮如上人の像(西福寺)

 7人の落武者の一人:茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号(とらふのみょうごう)と正信偈(しょうしんげ)が残されています。

 

 

 

 

虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

願證寺(浄土真宗本願寺派)

 沖島の住人西居某が蓮如上人に帰依し、法名を釈願證と授けられたことに始まります。

弁財天(厳島神社)

 長松寺(彦根市)の僧が記した沖島弁天記に弁天を祀ったとの記録が残されています。雨乞い弁天として信仰されており、明治9年にはこの地で雨乞いを行った記録も残されています。

奥津島神社(祭神は奥津島比売命)

奥津島神社鳥居奥津島神社鳥居

 藤原不比等の建立に始まります。鳥居の社標は憲政の神様と呼ばれる尾崎行雄(愕堂)。宮世話は島で42歳になったものが1年間行い、その交代式は大晦日の深夜に行われます。春祭りは5月8日・秋祭りは9月20日。

 

 

 

沖島小学校

沖島小学校校舎沖島小学校校舎

 明治の学制発布により西福寺内に開設されたのが始まりで、明治42年に旧校舎地に移転、平成7年には現在の地に新築移転されました。小学校の給食はスクールボートに積み込み当番児童がリヤカーを使って学校まで運びます。中学生は昭和39年に分校が本校に統合されてからは、スクールボートで通学しています。

生活

民家の間は細い道で 結ばれています。民家の間は細い道で結ばれています。

 沖島は淡水湖の中に人が住む島としては国内唯一で世界的にも非常に珍しいとされています。昭和3年に沖島にランプが灯り、昭和23年に湖底ケーブルによる送電が始まりました。水道は昭和35年に上水道敷設が行われ、昭和55年に簡易水道が設備され、昭和57年には下水道が完備されました。以前は、島には井戸が無く、早朝に琵琶湖から水がめに水を汲んでおき、それを生活用水として活用していました。情報技術面でも平成14年度内に光ファイバーの架設工事が始まり、島の生活も利便性が増すようになります。
島内には元気なお年寄りが多くおられることも特徴で、介護率や寝たきりの方は市内よりも少なくなっています。これは、「支えあい・ふれあい」というかつてなら何処にでも存在したコミュニティーが残されていることの証明ではないかと思います。

 

交通、食事、宿泊

沖島へは通船を利用。乗り場である堀切港までは、近江八幡駅北口より近江鉄道バス休暇村行き堀切港すぐ。
沖島への乗り場となる”堀切港”までのバスの便数は少ないのでお気を付けください。
沖島への通船時刻表、沖島での食事、宿泊情報へ

 

編集後記

 かつて、ある大学の教授が沖島共和国独立計画を立案されたことがあります。当然、論文の中だけの話ではありますが、大統領を選任し、議会を開設、漁業立国を確立させながら、国営ホテル「竜宮城」に日本人観光客を集めるなどの観光振興政策を積極的に推進し、沖島大学にも日本国を始めとした留学生の積極的な受け入れ等々の施策が書かれています。「沖島独立計画」は現在の主流となっている市町村合併の動きに反するような計画かもしれませんが、住民自らが、地域の特徴や歴史や伝統を誇りに思い、我が町の未来を創造する事は、本来の地方自治のあるべき姿だと感じます。
 現在、沖島においても島の未来を考えるために、住民や行政、漁協、小中PTA、老人会、婦人会 等々の各代表が議論検討を重ねた「沖島夢プラン21」が答申されました。このプランが夢で終わることなく、まさしく「琵琶湖に囲まれた21世紀の桃源郷」と呼ばれる日を期待しながら、当協会の役割を果たしていきたいと思います。(田中)

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