ヴォーリズの生まれ故郷レブンワース市

ヴォーリズの故郷

ヴォーリズの故郷ヴォーリズの故郷

ヴォーリズはレブンワース市に生まれ、7歳まで住み、7歳の終わり近くに一家そろってフラッグスタッフに移住しています。

 

 

 

レブンワース市

ヴォーリズの生家レブンワースに残されているヴォーリズの生家[提供:(財)近江兄弟社]

1880年(明治13年)10月28日、アメリカ、カンザス州レブンワースの母方の祖父ウィリアム・メレルの家でヴォーリズは生まれました。祖父、両親、伯母(母の姉)、従姉妹のカリー(伯母の娘・当時20歳ぐらいでドイツ人教師から熱心にピアノを習っていた)の5人で暮らしていました。   2歳の時に腸結核と診断され、7歳か14歳にになれば病気が再発するだろうという医師の予告のために、5人の大人の過保護的な愛情の中で育てられました。そのため、いつも周囲に人から世話をしてもらうことを期待するようになり、不精、遅鈍、怠惰などの悪癖が第二の天性となり、生涯のハンディキャップとなったとヴォーリズは『失敗者の自叙伝』に書いています。   この頃、従姉妹のカリーがピアノの練習をしているのを聞くことで音楽への関心と興味を深くしていきました。ヴォーリズはメンデルスゾーンをこよなく愛した反面、ジャズ音楽などには一種の嫌悪感さえ感じていたようです。

父/ジョン・ヴォーリズ

ジョン・ヴォーリズ父/ジョン・ヴォーリズ[提供:吉田ゑい]

ランダ系の血を引き、商人として成功を収めたかたわら教会での奉仕活動を熱心に続ける正義感あふれる人でした。母ジュリアとはその教会活動で出会いました。   彼も後から日本に来て、11年間近江兄弟社の会計を担当してヴォーリズに協力しました。大正14年(1925)1月10日、昇天。近江八幡教会にて葬儀がとり行われましたが、近江八幡市で最初の外国人の葬式と言われています。

 

 

母/ジュリア・ヴォーリズ 

ジュリア・ヴォーリズ母/ジュリア・ヴォーリズ[提供:吉田ゑい]

オハイオ州レーク・エリー・セミナリー神学校を卒業後、レブンワースの教会で日曜学校教師を務めていました。彼女も夫と共にヴォーリズの後を追い、来日。伝道活動を手伝い、90歳の天寿を全うし、終戦後近江八幡で天に召されました。

 

 

フラッグスタッフ市

ヴォーリズの7歳の終わり頃に、一家は彼の健康のためにアリゾナ州(当時アリゾナは州ではなく合衆国の領土でした)フラッグスタッフに移住しています。レブンワースにいた4歳の頃から絵画に興味を持っていたヴォーリズは、フラッグスタッフ時代の11歳の時に、画家として生計をたてていた母の親友の姉に絵を教えられ、14,5歳の頃には絵の先生から特別の教授を受けて油絵を描くようになっています。ヴォーリズが晩年になっても鮮やかに回想するこのフラッグスタッフ時代に彼の芸術的天分の素地が育まれたようで、そのころ、第一の楽しみにしていたのが自然の写生画であり、森を描いた数点の油絵が今も近江八幡のヴォーリズ記念館(一柳記念館)に残されています。   後年、ヴォーリズは『失敗者の自叙伝』の中で、アリゾナが与えてくれたものとして、健康と精神の高揚、そして史学、人類学、地質学の深い学問に対する新しい視野などを挙げており、大自然の中で遊び、過ごす楽しさを生き生きと語っています。また、ナバホ族などのインディアンたちが、足に鹿皮の靴をはき、頭には羽毛の装具をつけ、肩には色鮮やかな手織の毛布を掛けた盛装姿で町を通るのに出会うこともあったようです。

フラッグスタッフの家ヴォーリズが少年時代を過ごしたアリゾナ州 フラッグスタッフの家[提供:(財)近江兄弟社] フラッグスタッフの風景現在のフラッグスタッフの風景

 

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