ヴォーリズの社会貢献活動の紹介 


 

○医療活動

ヴォーリズはかねがね療養院建設を計画していましたが、この建設を急がせた理由に一つのエピソードがあります。それは遠藤観隆という若い仏教徒がキリスト教徒に改宗し、ヴォーリズの建築事務所で働いていたのですが、設計の才能を発揮し始めながらも肺結核で死亡、ヴォーリズを大いに悲しませたことです。
 
ヴォーリズが強く主張した近江療養院の処方は次のようなもので、この精神の基本は今も受け継がれています。
  1. 新鮮な空気を昼夜わかたず用いること。
  2. 睡眠を充分とること。
  3. 滋養のある食べ物を適量に摂ること。
  4. 清潔にして簡素な生活をすること。
  5. 主イエス・キリストに全身全霊をお任せした信仰生活をすること。
  6. 服薬は少量であること。

近江療養院は現在「ヴォーリズ記念病院」と名前を変えて総合病院として健在です。 また平成10年度に「ヴォーリズ老健センター」が運営を開始し、医療活動に対するヴォーリズの志はますますその輪を大きくして発展しつつあります。

 

○教育活動

近江ミッションの婦人達の活動は、吉田柳子と、ヴォーリズの母ジュリア(58才で大正3年(1914)来日)、ウォーターハウス夫人、ヴォーゲル夫人などを加えて宣教以外に、「料理教室」や「英会話教室」などが活発に行われていました。
 
そこへ大正5年(1916)吉田悦蔵が26才で渡辺清野(28才)と結婚。そして大正8年(1919)ヴォーリズも38才で一柳満喜子(35才)と結婚し、村田幸一郎夫人なども加えて、大正10年頃には堂々たる婦人組織ができあがっていました。それゆえ、料理、英会話に加えて、ピアノ、手芸、体操、ろうあ教育なども盛んに行われるようになりました。
 
こうした人々による手作りの教育環境が、今日の近江兄弟社学園の学校教育の基礎になっていますが、ここでいち早く本格的な教育活動に乗り出したのが満喜子夫人です。彼女は専門である幼児教育を活かし、大正9年(1920)池田町の自宅でプレイグラウンドと称して子供達を集め、翌年、池田町5丁目の空き家を購入して「清友園」として保育を開始しました。そして翌年、滋賀県から正式に清友園幼稚園の認可を受けました。
 
昭和12年(1937)5月には、世界的に有名なヘレン・ケラー女史の来校を受け、近江兄弟社の盛んな教育熱とヴォーリズの人脈の広さを内外に示した大きな出来事でした。
 
昭和22年から26年にかけて幼稚園から高等学校までを統合した総合学園「学校法人近江兄弟社学園」が誕生し、ヴォーリズは理事長、満喜子夫人は学園長に就任しています。

 
○図書館の運営
昭和15年(1940)12月、ヴォーリズは社会教育の一環として図書館を開設しました。名前は「近江兄弟社図書館」。場所は近江八幡市新町3丁目。近江商人として高名な「扇屋・伴庄右衛門」の屋敷を利用して運営されたものです。
 
これには一つのエピソードがあります。それは「ヴォーリズと言えども、外国人が伝統ある近江商人の屋敷を買い取るとは何事か!」という反発が有力な近江商人達の間で巻き起こり、早速、彼らが金を出し合い、ヴォーリズと談判の末、この建物を強引に買い戻しました。そして、この建物を改めてヴォーリズに賃貸したということです。それゆえこの建物は今も「(財)八幡教育会館」の所有になっています。「実」は与えても「名」を残すという当時の近江商人とヴォーリズとの微妙な関係を物語っているエピソードです。
 
この後、「元・八幡文庫」であった「町立八幡図書館」を併合する形で昭和50年(1975)まで私立・近江兄弟社図書館は運営されますが、一時期の株式会社近江兄弟社の経営不振の折、その図書と備品の一切が市に寄贈され、近江八幡市立図書館として市に運営をゆだねられました。平成9年に近江八幡市立図書館が八幡山の麓に完成し、現在は市立資料館の一部として開館されています。


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