水郷と古き商家のたたずまい
近江八幡(おうみはちまん)
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 近江八幡の火祭り 左義長まつり、八幡まつり、篠田の花火
近江八幡市には古から今日に至るまで、毎年決まった時期に特定の人員で構成された「火まつり」が市内各地で開かれています。これを「近江八幡の火祭り」と称し、平成4年に国の無形民俗文化財に選択されるなど、学術や文化、歴史や観光面からも多くの注目を集めています。
これらの火祭りの中で最も賑わいを見せる日牟禮八幡宮での祭り(左義長まつり・八幡まつり)と篠田の花火をご紹介します。

左義長まつり(3月14日・15日に近い土日に開催)
1.左義長の起源・いわれ
左義長
 平安時代に宮中で、毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう:注1)と言う正月のめでたい遊戯がありました。
 左義長はこの打毬で破損した毬杖を、清涼殿(注2)の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るし、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼く行事が起源とされ、この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三鞠打・三木張、散鬼打、などと記され、しだいに左義長と呼ばれるようになったと考えられます。
 現在でも正月15日前後に、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事として行われ、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないなどと言われています。
 全国的には1月に左義長を行っている地域が多く、近江八幡の左義長まつりも江戸時代には1月の14日・15日に執り行われていたようですが、明治時代に入ってからは、太陽暦の採用に伴い3月に変更され、昭和40年代からは3月14・15日に近い土日曜日に開催されるようになりました。
注意1 大陸伝来のもの。紅白の毬を先がヘラになった毬杖で掬って自分の組の毬門に早く投げ入れた方を勝ちとするポロに似たもの。
注意2 清涼殿(せいりょうでん):平安京内裏の殿舎の一つで天皇の常の居所。

2.近江八幡の左義長まつり
 近江八幡の左義長は元来、安土城下で行われていたもので、城主であった織田信長自らも踊り出たと伝えられています。
 織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々は、既に4月に行われていた八幡まつりに参加を申し入れましたが、松明の奉火場所が無く、また新参とのことで断られたため、これに対して、安土で行われていた左義長まつりを始めたことが起源とされているとも伝えられています。
 近年の左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納されていますが、過去には中止されたり縮小することもあったようです。八幡開町から江戸初期頃までの左義長に関しての資料はありませんが、八幡町史では、宝永2年(1705年)まで行われ、同3年以降、34年間休んだという記録があり、町中残らず参加、以後毎年開催されるようになったのが元文5年(1740年)と記されています。
 他にも、寛延元年(1748年)朝鮮通信使来幡につき中止、安永8年(1779年)左義長29基が奉納、天保5年(1834年)米穀貴重のため禁酒にて行う、慶応4年(1868年)維新騒動のため休止、昭和3年御大典を祝い31基奉納 等々、左義長まつりも時代を反映していたことが分かります。

3.左義長の制作
左義長 左義長は松明、だし、十二月(赤紙)の3つの部分を一本(基)にし、前後に棒を通し、つり縄で括り固め御輿のように担ぐように作り上げます(これ全体を左義長と呼びます)。前方となる正面に「だし」と呼ぶ作り物は意匠を凝らし、時間をかけ経費を惜しまず各町の誇りをかけて制作されます。
 かつて「だし」は町の器用で作り物の得意な人によって、専門的に手がけられていましたが、現在は町内の人々の手作りによりその年の干支に因んだ物を主としテーマを決めて制作されます。
 干支の作り物を「むし」と呼び、背景は円形、方形、扇形など「台」と呼ぶ部分を作り取り付けます。この素材が、穀物「大豆、黒豆、小豆、胡麻 等)や海産物(鰹節、昆布、するめ、干魚 等)の食物を使って、その素材の色を活かして作り上げることが大きな特徴です。以前の左議長は今より高く大きかったのですが、街中に電線がひかれたこと、また担ぐ力の関係からも現在の大きさになったようです。
 毎年、年が明けると本格的な準備に入り、制作の経費や作業も各町毎で協力しながら、年毎に新たな左議長を作る喜びを分かちあい、祭りの当日を迎えます。

4.参加者と変装の謎
 左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれ、その服装は、揃いの半纏を羽織る姿が一般的です。近年は少数になりつつありますが、女物の長襦袢を着用したり、化粧をするなど、変装した格好で左義長まつりへ参加するものも少なくはありませんでした。
 これには、諸説ありますが、織田信長が自らの正体を隠すために派手な出で立ちで参加したとの話を、近世の人々が変装するものと解釈したのではないかと言われています。
 左義長を担ぐ人々は口々に「チョウヤレ・チョウヤレ」と「マッセ・マッセ」と声を発しています。前者は「左義長さしあげ」後者は「左義長めしませ」からこのような掛け声になったものと思われます。

5.まつりのスケジュール
 金曜の午後、日牟禮八幡宮にて行事順を決める「みくじ祭」があります。土曜日は13時に左義長が日牟禮八幡宮へ勢揃いします(この時に山車コンクールの審査も行われます)。14時から渡御(旧町内巡行)が行われ、17時半頃からは山車コンクールの表彰式が行われます(この山車コンクールでの優勝を目指して各町が競って制作します)。
 日曜日には、午前中から各町の左義長が旧城下町を中心に自由に練り歩き、「組合せ」(左義長のけんか)が行われます。そして20時からみくじ祭での奉納順に従い左義長は順次奉火され(一番から五番までは一斉奉火)、最後の左義長が燃えるまで、祭は夜遅くまで続きます。
 近江八幡の左義長まつりは、「天下の奇祭」とも呼ばれますが、他にも、この祭りが終わると本格的な春が訪れることから、「湖国に春を告げるお祭り」などと形容されます。京阪神や中京圏を中心に観光客並びにカメラマンが例年5万〜7万人もの人々で賑わう滋賀を代表するお祭です。

八幡まつり(例年4月14日・15日開催)
1.八幡まつりの言われ
八幡まつり この祭りは、西暦275年に近江の地に行幸された応神天皇が、現在の日牟禮八幡宮へ参詣される際に、琵琶湖岸に位置する南津田7軒の家の者が、ヨシで松明を作り、火を灯して道案内をしたのが始まりではないかと伝えられています。

2.祭りの構成
 社伝によれば、八幡宮本殿の南側に祀られる大島神社がその地主神で、正暦2年(991年)に八幡神を宇佐八幡宮から勧請、その後、帰属した船木郷と両郷の鎮守として推移したと伝えられています。
 八幡祭における、上之郷が大島郷、下之郷が船木郷とされ、幕末までは、祭りの中に上之郷(6郷「市史」or7郷「宮司」)が大島社に対して行う神事があり、特に「大島祭」と称していたようです。
 現在は上之郷(市井、多賀、北之庄、鷹飼、中村、宇津呂、大林、土田)と下之郷(船木、小船木、大房、南津田)12郷のまつりとされています。

3.まつりのスケジュール
八幡まつり 今日の八幡まつりは、4月14日(松明まつり)・15日(太鼓まつり)に行われています(16日にも宮司、巫女、各郷神約が出仕する須寺渡りと呼ばれる祭事があります)。
 松明はヨシと菜種がらを材料に作られ、中には10mに及ぶ大きさの物もあり、火を付けながら手で振りかざす「振松明」や引きずりながら持ち込む「引きずり松明」、他にも「とっくり松明」「船松明」と呼ばれるものなど、大きさや形も多種多様にわたります。
 各町によって作られる松明は、宮入と同時に持ち込むか、宵宮の前の日曜日から当日の夕刻までに所定位置に立て並べられます。
 14日は午前中に大松明結い、昼から子供松明の奉火、19時より神役太鼓が宮入し、20時から上之郷の松明からその年に定められた順に火が放たれ夜空を焦がします。上之郷に続き下之郷の松明に火が付けられます。なかでも大房の松明は、寝かせた状態で持ち込み、30度ほど起こした状態の時に松明に火を付け、火の粉をかぶりながら竹で突き上げつつ松明を起こしていく姿は勇壮で、男らしさを感じさせられます。
 現在では、大きな松明も珍しくはありませんが、見物客への期待に応えるため、また郷のその折りの勢いが気持ちの表れなどとなり、松明も大きくなっていったようです。過剰な競争が住民同士のトラブルを招くことにあり、江戸時代には京都町奉行所に訴訟になったこともありました。よって、松明の大きさは、葭(ヨシ)の大きさ程度に自粛するようにと度々申し渡されています(太鼓についても同様で、次第に大きなものを調えていったと伝えられています)。
 15日は10時から例祭、15時から太鼓渡り宿入り、16時から大太鼓の渡りが行われます。この渡りも昔からの決まった順番で宮入りしますが、雨天の場合は、代渡りと称し役員と代表者で太鼓なしの渡りの時もあります。また、鳴らされる太鼓の打ち方は各郷に伝わるものとされています。

4.まつりの伝説
 この祭りは、農業用水の水利に起因するとの説があり、源平合戦を表しているとも伝えられていますが、基盤は農村集落の集まりであり、各郷が自然災害を受けることなく、稔りの秋を迎えるため、各郷集落が一同に会し、日頃の神々の恵みに感謝と祈りを捧げた姿ではないかと考えられます。その結果、各地域での水争いはなく、この祭りが大きな役割を果たした時代もあったと言えます。
 祭りの中に二つの異なる姿が表現されているのは、祈りの姿の表し方であり、雌雄と理解するのが自然であると考えられます。ただ、全体がどう表現されているのかという見方よりも。年毎に心を結び合いながら新たに作り上げ、共同して行事を取り進めることが大切だと言えます。

篠田の花火
篠田の花火 篠田の花火は、篠田神社で開かれる祭礼で、今では珍しい硫黄・硝石・桐灰を調合して作る和火薬を板に描いた絵柄に塗りこむ仕掛花火です。約1ヶ月をかけてつくられる花火は、高さ約15メートル・幅約25メートルの大きさで、毎年、違った題材の絵柄が描かれます。
 夜7時頃、太鼓につづいて大松明が宮入し、篠田神社の境内にたてられます。9時過ぎに花火は奉火され、その瞬間、周囲はものすごい爆音と炎、そして煙に包まれます。渦巻き状回り火や打ち上げられた乱玉は、目もくらむばかりの美しさで、煙がおさまったあとに浮かび上がる幻想的な花火絵柄は、まさに夜空に輝く芸術品と呼ぶにふさわしいものです。仕掛花火が消えると、最後に大松明が奉火され、夜空を赤々と焦がします。篠田の花火

例年5月4日開催(雨天の場合は順延)
篠田神社 近江八幡市上田町1615 電話:0748-38-0387
(当日用)

編集後記
 祭は、その地域の伝統や歴史を表すだけでなく、世代交流や文化の伝承という大切な役割を果たしています。また、人出不足や資金不足などの問題も抱えていることも全国各地に共通した問題です。不況・少子化・住民の無関心・等々難題は多くありますが、収穫への願いや感謝、無病息災を願う祈りは、いつの時代も変わらないものであると言えます。
 参加するもの、見物するもの、いずれの立場であっても、祭りを考察することは、地域や人々の心を見つめることになり、忘れている大切なものが見つかるかもしれません。(田中)

参考文献
農山漁村文化協会 人づくりの風土記25
日牟禮八幡宮ホームページ
祭礼事典(滋賀県祭礼研究会)
日牟礼の火まつり(日牟礼八幡宮火まつり調査報告)
近江八幡の火祭り行事(近江八幡市教育委員会)
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