水郷と古き商家のたたずまい
近江八幡(おうみはちまん)
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 いにしえの道−中山道・朝鮮人街道
京都へ、江戸へ 人の夢を運んだ街道を辿って
 近江は、湖国といわれるとともに、古来、道の国でもありました。京の都へ続く天下の要所であり、「近江を制する者は天下を制す」とまで言われたのです。
 近江八幡もまた、多くの道が交差する街道のまちでした。その中でも中心となったのが中山道と朝鮮人街道です。
 天正年間に織田信長が開いた脇(浜)街道を、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が京都上洛時に用い、天下支配の吉道としました。後に、朝鮮通信使が江戸へ向かう道となり、朝鮮人街道と呼ばれるようになりました。
 また、江戸時代に五街道として整備された中山道は、東国と京都を結ぶ道として、古くから賑わった道です。幕末には、皇女和宮の降嫁に伴う大行列が中山道を下ってゆきました。

中山道「武佐宿」
中山道武佐宿 中山道は古代東山道を継ぐ道筋で江戸時代には五街道の一つに数えられていました。近江路には柏原から草津までの9つの宿場があり近江八幡市には武佐宿があります。

 この地は、武佐宿を起点に伊勢に向かう八風街道(八日市・永源寺を通り八風峠を越え伊勢へとつながる街道で海産物、紙、布等の物資が行き交ったとされています。現在の国道421号線がほぼ踏襲)や八幡町内へ分岐する交通の要で長さは約1kmに及びます。

 江戸時代に入って宿次・伝馬の法が一新され、武佐宿駅は大駅となり、宿村大概帳によれば、宿高八百九十余石、町並八町二十四間、本陣一、脇本陣一、問屋二、高札二、旅籠二十三、人足五十人、馬五十頭(最も賑わったときは百五十頭)、家数百八十三、人口五百三十七人と記されています。江戸時代の最も盛んな頃は三千人余の人の往来があり、近江商人もさかんに行き来したと思われます。その当時の風景は、安藤広重によって木曽街道六十九次にも描かれています。

 また、かつては武佐升(近江升とも言われる八合升。秀吉が京升を採用したため薄れた。)や武佐墨(平安時代後期には紀伊国の藤代墨と並び名産だった)などの特産もあったと伝えられています。

※中山道はかつて中仙道とも記されましたが、幕府は正徳6年(1716年)に中山道と改めました。
*近江中山道絵巻はこちら(近江歴史回廊推進協議会)まで
武佐宿イラストマップ

朝鮮人街道−朝鮮から江戸へ 朝鮮通信使が通った日朝友好の道
朝鮮人街道 先に述べた「中山道」とは別に琵琶湖岸に「朝鮮人街道」と呼ばれる街道があるのをご存知でしょうか。江戸時代には一般に鎖国の時代と思われていますが、朝鮮と琉球とは信を通わす外交のある国「通信の国」とし、中国とオランダとは貿易船の来航を認める「通商の国」と定めました。その朝鮮からの使節「朝鮮通信使」が通った道が「朝鮮人街道」と呼ばれ今もその名を残しております。

 豊臣秀吉の朝鮮侵略以後、断絶が続いていた日朝関係の回復を願った徳川家康は、対馬藩を通じて朝鮮へ幾度と使者を送り、国交の回復に努めました。紆余曲折があったものの、慶長12年(1607年)、正式に使節を迎え入れることとなり、以後、文化8年(1811年)までの間、計12回の通信使が日本にやってきました(12回目は対馬で聘礼が行われたため、漢陽〜江戸は11回)。当初の3回は回答兼刷還使(家康による国書の回答と日本に連行された捕虜を連れ帰る)でしたが、それ以降は将軍の代替わりに際しての祝賀へと変化していきました。また、外交使節のほかには文化使節的な面も持っており、学者や文人、画家や書道家たちも同行しており、少なからず当時の日本の文化に刺激を与えたと思われます。

 通信使の一行はソウルを出発しプサンより海路で対馬から瀬戸内海、淀川から京都へ到着、その後は陸路で中山道・東海道を通過し江戸を目指すという行程でその長さは約2000kmに及び、その期間は往復で約1年もの歳月を費やしました。しかしながら、この長い道のりの中で「朝鮮人街道」と呼ばれるのは、不思議ながら現在の野洲町小篠原から安土・八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmに限られています(滋賀県内での通信使の行程は基本的には京都を発ち、大津で食事、守山で宿泊、翌日は、八幡で食事、彦根で宿泊という行程)。

 朝鮮人街道の起こりは織田信長が安土城築城の際に京都までの道を結んだことによります。中山道の「上街道」に対して「下街道」と呼ばれたり琵琶湖岸を走ることから「浜街道」とも呼ばれていました。一説には、日本の狭さを隠し広く見せるため、わざと迂回し曲折した道を通行させたと言われる説があります。しかしながら、大名行列との鉢合わせをさけたことや、時には500名にも及ぶ人間の宿泊や休憩先を考えると彦根や八幡を通ることが最も適していたと考えられます。
 また、関ヶ原の合戦で勝利を収めた「徳川家康」が上洛する際にこの街道を通ったことから、この縁起の良い吉道を通行させることで通信使への優遇ぶりを表そうとしたとも考えられています。
本願寺八幡別院
本願寺八幡別院豊臣秀次が安土城から移築した市内随一の大寺院。1601年に徳川家康が上洛した際、宿泊所となりました。また、朝鮮通信使の昼食所で、その通信使・副使の書が今も残されています。

近江八幡市北元町39-1
電話 0748-33-2466
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